難破船まじやみの冒険

迷いながら日々生きています

なりたいもの

「なりたいものは~?」

今回のブログは「ボイメン体操」の中で、ボイメンが子どもたちに投げかける問いから始めてみることにしましょう。

 

自分自身の「なりたいもの」の記憶をできる限り遡ってみると、いちばん古いのは幼稚園の卒園アルバムに書かれていた「ケーキ屋さん」だったような気がします。

物心がつく前から「おとなしい」と評される人間だった僕は、特撮やウルトラマンよりもミニカーやレゴブロックが好きな子供で、そんなだから友達も圧倒的に女の子の方が多い子供でした。園では年中おままごとに巻き込まれていたらしいということは、僕の当時の「男の子らしさ」の欠如を心配していた親からさんざん聞かされました。

 

その次の夢は……たぶんアナウンサーとかだったはず。ある時期まで僕のことを子役として芸能界に放り込もうと企んでいたこともあった母親(実現してたら人生違ったのかなぁ…)が、小学校中学年くらいの僕に吹き込んでいたので、なんとなくいいなと思って、人から聞かれたらそう答えることにしていたような気がします。

ちなみにその気分に当てられて、小学校では2年間だけ放送委員をやって、お昼の放送を担当させてもらったりはしてたけれど、顧問の先生が怖かったことくらいしか記憶にありません。

そしてそれ以降、僕は夢というほどの目標や理想を持ったりした記憶はなく、わりとその時その時をなるように生きる日々を重ねて、現在に至ります。

 

 

急に夢の話なんかしてどうしたの?と思われたかもしれません。

こんな話をしようと思ったのは、先月末にZepp Hanedaで行われた「げんき」のライブの一幕で、勝さんが辻本さんに対して「今(辻本さんが)なりたいものは?」という質問を投げかけるシーンがあったからなのですが、

その質問に対する辻本さんの答えは、「なかま」というものでした。

 

ライブ中のMCの中でのワンシーン(しかも突然の質問に対してしどろもどろになりながら絞り出した風の答え方だった)のことだったので、文脈的にこの辻本さんの返答には深い意味はなかったはずですが、ライブが終わって数日が経って、僕の中で「なかま」という言葉が、すごく大きな意味を持ちはじめています。

 
踊ってみた・撮ってみた・上げてみた

 

ちょっと話は変わりますが、この「踊ってみた」動画は、この「げんき」のライブ終演後に会場の裏手でひっそりと撮影したものだったりします。

この企画が出た当初は、まさか自分が動画を取って投稿するとは思っていませんでした。それどころか「オタクが踊ってみた動画を上げたところで、ボイメンくんの新規ファンの獲得にはつながらなさそうだよなぁ」などとへそ曲がりなことを言っていたので。笑

なので僕が投稿した動画に対して、フォロワさんたちがすごく好意的な反応やコメントをくれたのはすごくありがたかったです。

こういう企画って本来は「自分もやってみたいと思うかどうか」で動くものであって、ファン獲得がどうのとかってのは二の次のはずで……そういう大義名分を振りかざさないと動けない自分自身の意志の弱さを見つめ直すこともできて、そういう意味でもすごくいい機会だったのかなとも思いました。そして意を決してやってみたらやっぱり身体を動かしてダンスするのは楽しかった!

 

ただ、やるからには自己満で終わりたくないな~とも思っていたので、改めて自分の映像を見て、普段から自分の体力ゲージを意識しながら安全運転で生きてる僕の姿と、普段から「全力を出すのが当たり前」な覚悟で生きているボイメンの姿は、(ダンスの巧拙とかそういうレベルじゃなくて)比べようもないくらいに全然別ものだってことがハッキリわかりました!そもそもボイメンと自分を比べること自体、失礼な話なんですけど。

 

僕はこう見えて(?)プライド高高人間なので、長らく「負け戦はなるべくならしたくないな~」とうっすら思いながら生きてきました。

なら負けないように頑張ればええやん!って、今の僕なら思えるんですが……それこそ学生時代とかの僕は「チャレンジしても失敗するかもしれない」とか「そもそも一生懸命やることがカッコ悪い」とか、自分が安全地帯から飛び出すための努力を回避するためになぜか必死だったなあと思います。少年期の僕が明確な夢を持つことが出来なかったのも、夢が叶わなかった時のことを想像するのが怖かったからなのかもしれません。

 

そのマインドを転換できたのは、言うまでもなくボイメンとの出会いがきっかけです。

毎日を一生懸命に生きる彼らを身近に置いたことで、自分の中での「一生懸命」や「全力」の水準がずいぶんと低くなっていることに気付かされていることに気付かされました。

そしてその気付きによって「このままだと僕は『全力の出し方』そのものを忘れてしまうのではないか……それってすごく怖くてさびしいことなんじゃないか……」という危機感を得たことで、アラサーになってからそんな自分を変えたいと、悪あがきをするようになりました。

 

なので今回動画を出すにあたって、なんとか自分なりに「悪あがき感」や「全力感」みたいなものが映ったらいいな~と思ってはいたんですが……やっぱり一朝一夕にはいかなかったみたいです。

ただそれでも今回あの動画を撮って出したのは、「チャレンジすることがカッコ悪い」と思っていた自分自身との決別と、「一生懸命」のリハビリ途中のいま現在の僕の姿をここに記録しておきたいという気持ちと、ふたつの意味が含まれています。

いつかボイメンと同じように……とはいかないけれど、もっと全力でシャカリキに身体が動くようになるように、日頃から頑張って生きていかないとなと思いました。

 

僕がなりたかったもの

さて、だいぶ話は遠回りをしてしまっています。

僕にとってのZダンスチャレンジは「なにかを変えたい」という僕の願いの発露のひとつだったわけですが、じゃあ「アラサーを迎えた僕はこれからいったいどうなりたいのか」というところについては、自分のことながらずっと言語化できずにモヤモヤしていました。

 

いちおう断っておきますが、べつに今の暮らしにものすご~く不満があるわけではありません。それなりに毎日生きていけて、とてもカッコよくて素敵な推しがいて、狂信的なオタクとしての人生が続くのであれば、それも悪くはないかなと思っています。

ただ、推しを推すオタクでいるということは、(すごくあたりまえのことですが)常に推しとオタクは「ステージと客席で向かい合う」関係性にあるということです。

客席から見る辻本さんはとんでもなくカッコいいけれど、ステージを隔てて向こう側はどうしたってオタクにとっては別世界。イベントやライブを刹那的に楽しんでも、その後には推しのいない現実が押し寄せてくる。そのことを意識すると、途端にオタクである僕は辻本さんから切り離されて、ひとり奈落の底に落ちていくような無力感にさいなまれることがあります。

そういう状況を変えようと思ったら、それこそ①自分がステージに立つ存在になるか、あるいは②「ステージの向こう側」の世界に潜り込むか、あるいは③ボイメンに脇目を振っていられないくらいにシャカリキに仕事をするかの3択くらいしかなさそうなもんですが、そうなりたいかと言われたらいずれもちょっと考えちゃう…というのが実際のところ。

辻本さんの「なかま(になりたい)」発言が僕の前に降ってきたのは、そんな感じに「じゃあどうしたらええねん!」とぐるぐるしていたときでした。

 

ここから先は妄想オタクによるスーパー妄言タイムなのですが……辻本さんの「なかま」という言葉が指し示すイメージは、ステージと客席で向かい合う関係ではなく、お互いに同じ目線で同じ方向を見ている関係を指しているのではないかと感じました。

客席から推しを推すオタクとして僕が願うのは、客席から黄色い(?)声援を飛ばして自分が推しに狂うことで終わりではなく、推しに向かって飛ばした自分の声援に「推しの背中を押す力」をほんの少しでも宿らせることにあると僕は思っています。

お顔もお身体もお声も心も魂も……僕の目に見えるすべてが神様のように素敵で、いろんなものを僕にくれる辻本さんだからこそ、オタクとして僕は彼を消費して終わるのではなく、(辻本さんも最近読まれた『推し、燃ゆ』の言葉をお借りすると)すこしでも平等で相互的な関係に近づけるように……辻本さんやボイメンから「もらいすぎ」ている側の僕から、何かが返せたらいいと、そう思っていたのですが……そんなん一生かかったって無理じゃないかと最近気付きました。リボ払いをしてる人が借金を完済するのがほぼ不可能なのと一緒(?)です。

しかももらったものをご本人に返そうとするのって、結局は「向かい合う」関係性の中で現れる発想(さらにご本人がオタクからの「お返し」を喜んでくれるかと言ったら微妙な話でもある)な気がしていて、やっぱりこれは何の解決にもならないんですよね。

 

そこで「なかま」の概念の出番です……!

「なかま」になるって具体的にどういうことだろうと考えてみたのですが、おそらく「目標を共有する」のが「なかま」ってやつなんですよね。(ぼくは人類初心者なので、人間の営みは初歩中の初歩から丁寧にほぐしていきます)

つまり辻本さんやボイメンの「なかま」になるということは、かれらが目指しているものを僕も目指すということであって……この世界に少しでも勇気や希望や元気をもたらすために活動しているボイメンのように、僕もこの世界が少しでも素敵な場所になるように「今できることを毎日頑張る!」べきだってことであって……ってそんなことは実はいろんなライブのMCで勝さんが言ってくれてた言葉のはずなんですが、お恥ずかしながら僕は「ファミリー」という言葉にいまいちピンと来ていなかったので……辻本さんのお言葉で、ようやくその概念を腹に落とすことができたというところです。

 

それにしても、辻本さんの存在のおかげで僕自身が今までよりも頑張れたとするならば、それは僕をそうさせた辻本さんの功績ってことになりますよね?

そう考えてみたら、僕はいまの自分の仕事をいままでよりも一生懸命にできるような気がしてきたし、そのおかげでまた少し自分の仕事を、そして自分自身のことを、より好きになれるかもしれないなとも思いました。

 

 

というわけで、推しの何気ない発言のおかげで「自分自身が変わるために劇的に違う何かになろうとしていたけれど、本当に変えるべきは自分自身の心の持ちようそのものだったこと」に気付かされ、また推しに救われたオタクの話でした。オチも何もなくてすみません。

 

それにしても辻本さんという人は、サラっと出てきた言葉に深い思慮が滲んでいたり、さりげない行動に優しさや他者への思いやりが見て取れたりして、本当に知れば知るほどに好きになってしまう*1のですが……そのあたりのお話は、また別の機会にお話することにしましょう。

 

今回こそさらっと書こうと思ったけど、やっぱり結局長くなりました。毎度ちゃんと言いたいことがまとまったのか、書いてる本人もよくわかっていないのですが、とりとめがなくなるのでこのあたりにしておきます。今回もお付き合いいただいたみなさん、本当にありがとうございました。

*1:あげれば枚挙に暇がないけれど、最近だと2021年9月5日の「ボイメンの放課後」内の辻本さんの発言「俺はお●スの味方でいたい」発言にまつわる辻本さんの思想が、ロールズの格差原理とすごく似ているように感じて、どこまでこの人は正しさの中に生きているんだろうって震えました