難破船まじやみの冒険

迷いながら日々生きています

愛ほど歪んだ呪いはない ~呪術ミリしら勢が劇場版を見た話~

2021年の末も末、もういくつ寝るとお正月の頃合いになると、さすがに仕事も納まってきてお休みが頂けるようになったのですが、その休みに久々に会えることになった友人に誘われ、観てきましたよ「劇場版・呪術廻戦0」

youtu.be

あ、申し遅れました。僕はまじやみと申します。数年前まで男性声優界隈に生息していましたが、近年は地方発のボーイズグループを推しているしがないオタクです。

今でこそアイドル?界隈にいる僕ですが、昔の繋がりのフォロワさんのRTだとかのお陰様で、呪術廻戦が流行ってることだとか、通称「イタフシ」が推せるとか…そういうことは当然耳に入ってくるのですが、いかんせん僕が天邪鬼なせいで、流行ジャンルの後追いにパッションが湧かず、呪術をはじめ様々な作品に手を出せずにいました。(あとは単純に推しに夢中すぎて2次元コンテンツを追う余裕がなかったというのもあるけれど)こういう時に誘い出してくれる友人って偉大(土下座)

 

そんな呪術ミリしら勢のとりあえずの感想ですが、初心者でもちゃんとおもしろかったです

どんなジャンルも世界観の理解が最初のハードルですが、決して長くない映画の尺の中で、そのあたりがうまく入り込めるようになってました。

そして劇場版のおかげでほどほどに呪術の世界観にフィットできたことで、原作を覗いてみたい気持ちが呼び起こされました。僕が数ヶ月後に呪術にどハマりしてたらぜひ笑ってくださいね。笑

 

さて、そんな呪術廻戦0ですが、原作未履修の僕がわざわざ感想ブログを書こうと思った理由を単刀直入に言えば「映画を見て自分と推しの関係性についての理解が深まったような気がして、その気付きをどこかに書き残しておきたい」という、すごく本編と乖離したところにありまして。

こんなタイトルで呪術の感想じゃねえのかよ!」と仰るお気持ち、とてもよくわかります……わかるんですが、劇場版の主人公である乙骨憂太と、彼に憑依している「里香ちゃん」こと折原里香によってインスパイアされたこの気持ちを、どうかこの世界の片隅に置かせていただけないでしょうか。

とはいえ原作ミリしら勢なので、作品の世界観についての理解は未だふわふわしておりまして…ご無礼を重ねるようですが、そのあたりも目を瞑ってもらえたら僥倖です。

 

※以下より映画のネタバレが大いに含まれます※

 

とりあえず、この文章をお読みの方で呪術廻戦0をまだご覧になってない方のため、大変恐縮ではございますが、まずは僕から本当にざっくりと映画のあらすじをご説明させていただきます。

映画版の主人公(?)である乙骨憂太くんは貧弱で気弱で、とてもイジメられやすいキャラクターのようです。しかし彼の身に危機が近づくと、彼に憑依するスーパー強力の呪い「里香ちゃん」が発動して全てを破壊してしまいます。その呪いのせいで他人を傷つけることを恐れた憂太は、人との関わりを絶とうとするのですが、そんな憂太の身柄は呪術高専に引き取られ、憂太は呪術師としての教育を受けることになる…というところから物語はスタートします。

そしてこの憂太に憑依する「里香ちゃん」ですが、その正体は幼少期の憂太の親友であり、子供ながらに憂太と「大人になったら結婚しようね」と誓った女の子です。彼女が憂太の目の前で交通事故に遭って以来、怨霊となって憂太に憑依しているのですが、はじめ憂太は「里香ちゃん」をコントロールすることができず、「里香ちゃん」は見境なく憂太に敵対するものを破壊してしまいます。

 

今回の僕の気付きは憂太と「里香ちゃん」によって呼び起こされたものなので、あらすじもだいぶこの2人の関係性にフォーカスされたものになっています(実際の映画のストーリーはもっと複層的で深みがあります)が…この2人の関係性によって僕の中に呼び起こされた思いは以下の2点です。

 

①制御不能の「里香ちゃん」を抱える憂太が他人とは思えない

貧弱で内気で自分自身に対する自信がなく、何をするにも怯えながら過ごしているように見える憂太。その姿が自分自身と重なるという人は、僕だけでなはないはず。そしてダメダメだった彼が仲間のため、心身ともに成長して「里香ちゃん」を克服していく様子が、この作品において最もわかりやすいストーリーになっています。

一方でそんな憂太を愛し、それゆえに憂太を脅かすものを攻撃してしまう「里香ちゃん」ですが、彼女にも親近感というか、既視感のようなものを覚えました。というのも、憂太にとっての彼女のように、制御することが難しい、凶暴な感情が自分の中から湧き上がってくる経験というのも、僕は人生の中で何度となくしてきたからです。

作中で「里香ちゃん」の存在は、憂太が未成熟であることの象徴として描かれています。折原里香の死に際して何もできなかった幼い憂太は、鍛錬や数々の戦いの中で成長し、「里香ちゃん」の庇護を必要としない人間となり、解呪に至ります。

しかし僕の場合、自分の中から「里香ちゃん」のような衝動性や凶暴性が顔を出すことがまだまだあり、それは未だ自分自身が充分に成熟しきっていないことの証左だと思うのです。

ちなみに僕の中に現れる「里香ちゃん」は、単純に他人から攻撃されたときに自己防衛的に発動する攻撃性だけではなく、興奮したり感情が高まったときに出てしまう「やらかし」のようなもの*1も含んでいます。振り返ればキリがない。

そしてひとたび「里香ちゃん」が登場すると、その後になって自分自身をコントロールできなかった未熟さを呪い、「いっそ他人と関わらなければ人を傷つけることもないのに……」という発想に至るのですが……しかしひとりで生きていけるほど自分は強い人間ではなくて……って……わかる……憂太の思考がわかりすぎる……!

しかし僕は憂太と違ってまもなく30代を迎えようとしているいい大人なわけで……「里香ちゃん」を解呪した憂太のように、僕もそろそろ成熟した大人のオタクになりたい……いや、ならなきゃいけないんだよ……

 

②オタクは推しにとっての「里香ちゃん」なのではないか

憂太という弱い存在を守護するためにたびたび暴走する「里香ちゃん」ですが、憂太の成長に従って「里香ちゃん」の行動も次第に制御されるようになっていきます。そこから、狂信的に憂太を愛していながらも最後には綺麗さっぱり消滅する「里香ちゃん」の姿は、もしかしたら推しを愛するオタクと通じるものがあるのではないかとも思えてきました。

 

はじめ憂太は呪術師としての自分の力には気付いておらず、戦いのためには「里香ちゃん」の存在を必要としていました。しかし憂太が仲間と呼べる存在に出会い、呪術師として成長していくにつれ、憂太の中での「里香ちゃん」のプレゼンスはどんどんと低下していきます。憂太が強く逞しくなることは間違いなく良いことなのですが、憂太を今まで独占してきた「里香ちゃん」にとって、それは望ましいことのはずがないのです。(実際に最後の決戦の際、傷ついた仲間を気遣う憂太に対して「里香ちゃん」は嫉妬のような感情を表しますが、そこを憂太に一喝されたことでその態度を引っ込めたりしています)

 

一方で、優れた外見を持った者がなるアイドルという職業ですが、逆に言えば優れた外見があれば、芸能界で生きていくために必要な能力を持っていなくても、アイドルになること自体は可能です。(その素人性こそがアイドルの本質…という話はまた別の機会に)

そして彼らは厳しい芸能界で生き延びていくため、日々の稽古や小さな仕事やライブといった所謂「下積み」を重ね、少しずつ知名度や芸能人としてのスキルを広げていきます。下積みを乗り越えて大ヒットしていく者もあれば、鳴かず飛ばずで芸能界を去る者もあるわけですが……いずれにせよヒット前の「芸能人として半人前」なアイドルたちは、彼らに魅了されたファンたちに「接触」の機会を提供することで、日々の生計を立てているケースがほとんどかと思います。

そういう意味で、アイドルが一人前の芸能人として成長するまでに必要な庇護を与えるファンは、映画中で言うところの憂太にとっての「里香ちゃん」のような存在なのではないでしょうか。

 

ちなみに僕はここで「俺らオタクがいるからアイドルは生きていられるんだぞ」みたいなマウントを取りたいわけではありません。むしろ逆。

ファンにとっては、推しであるアイドルが強く成長することは当然喜ばしいことです。しかし一方で、アイドルが芸能人として成長すれば、先輩芸能人に目をかけてもらったり、仕事を通じてスタッフさんとの絆をつくったりと、推しが仕事を通じて仲間を増やし、信頼を獲得していきます。そしてその分だけ、アイドルは熱狂的なファンの存在に依存しないようになっていきます。

そういう事実を前にして、喜ばしくも複雑な気持ちになったこともオタクなら一度や二度のことではないでしょう。自分はそうならないぞ、と思った僕でさえそうなんですから…

 

ちょっと悲しい気持ちになってきたところですが、ここで一旦、映画の話に戻ります。

作中最強クラスの力を持つ「里香ちゃん」ですが、その力は「里香ちゃん」そのものではなく、実は憂太(血縁的に超サラブレッドな呪術師だった)に由来していたということが、物語のラストで判明します。

つまりは一旦は交通事故で死にかけた折原里香は、憂太が「いなくならないでほしい」と願った(呪った)ことで、里香は憂太を守護する怨霊としてこの世界に引き止められていた…ということです。伝われ

そして憂太が充分に成長し、もう「里香ちゃん」を必要としなくなったところで、憂太が里香にかけた呪いが解けて、彼女はきれいさっぱり消滅(成仏?)することになった、という構造です。

 

さて コチラの話ですが…

もし僕が自分自身を「里香ちゃん」に重ねるのだとすれば、オタクとしての僕という存在は推しによってこの世界に現出されたものなのではないだろうか、と思えてきてしまったんですよね。

 

というのも…我が推しはたびたびにファンに対して「ずっと僕のことを見ててね」的なことを言ってくださるのですが、これってもしかして「推しが我々ファンに対してかけた呪い」の一種といえるのではないでしょうか。

 

アイドルという存在を身近に感じるようになってからというもの、グループを脱退したりアイドルをやめる人の情報は嫌でも目につくようになってきました。

そのような悲しいケースを見るにつけ、ファンという存在や「推す」という行為は、ファン側の主体的な行動でありながら、実は推される側の許容の上に成り立っていたんだなぁ、ということをしみじみ思い知るようになりました。オタクは推しが「俺を推してくれ!」と言ってくれて初めて生きていける生き物なのです。

 

そう考えてみれば、僕が推しのオタクでいられるのは、推しが僕にかけた幸せな呪いを解いてしまうその日までということになります。その日がいつ来るのか、あるいは僕の命が尽きるほうが先なのかはわかりませんが……だからこそ僕はオタクとしての命を全うしよう、そして万が一呪いが解かれる日が来た時には「里香ちゃん」のように綺麗さっぱり成仏できるようにしたい!呪術劇場版を見て、僕は映画館の片隅で密かに思いを新たにしていたのでした。

 

おわりに

いろいろなことを考えさせられた呪術劇場版ですが、憂太であれ里香であれ、どちらに感情移入するにしても「自分自身が推しに依存せずに幸せに生きられるようになること」は必要だよなぁと思いました。憂太はこの物語を経て自分の生き方を見つけますし、里香と違って僕は実体を持っているので、オタクとしての呪いが解けた後も消滅しないという厳然たる事実があります。その時に、こんどは僕が推しにとっての呪いになるような事態は、なるべくなら避けたいかなぁ。

「愛ほど歪んだ呪いはない」というタイトルは映画中のある人物のセリフからですが、愛そのものは純然たる力であり、それをどのように受け取り、どのように使うのかが試されているんだなぁと思うなどしました。

 

あ、もしよかったら僕の推したちのことも見てってくれたら嬉しいです。ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

https://youtu.be/aXS6TM7HjgU:しtitle

 

*1:特典会で空回りなんてかわいい方で、ブログに激重コメントを残してしまったり、ラジオにドスベリメールを量産してしまったり等…もう思い出したくもない…