芸能人版「ジョハリの窓」考
※注意※
このブログは「推しを推すオタク心に正解なんてない」ということを前提にして話が進みます。誰かの推し方を否定したり、矯正しようと試みるものではありません。そもそも(これまでのエントリも含めて)僕がブログで書いてる文章は、すべてが僕の独り言なので……
序
もともと声優のオタクをしていた僕は当時、推しとは「演技や声に惚れて推すもの」という建前をかたくなに守り続けていました。声優とは基本的に顔を出さない仕事であって、本来世に出ないはずだった部分を好きになるのはなんだかな……というところは多分にありました。多分にありましたが、それでも僕は推しの姿かたちやお顔まで含めて、好きになっちゃったんだよなぁ……
だから、ご本人が登壇されるイベントにも可能な限り通いました。ご本人の元気な姿が拝めることはすごくうれしいことで、だけど心のどこかしらに「本当はイベントに出る暇もないくらい、声優の本業で成功してくれたら」という思いを消せずに過ごしていました。
そのときから比べると、アイドル的な活動をしているボイメンは、顔でも筋肉でも髪型でも声でも演技でも、どこを好きになってもいい存在です。声優を推していた時代に僕を縛っていたあのこだわりは、ボイメンを推すことに慣れていくにつれて、少しずつ消えていきました。
これで一件落着――そう思っていたのですが、僕の中のこだわりが氷解したことによって、僕の中に発生していた「もっと深刻なこじらせ」の存在が明らかになっていきました。
そのこじらせを説明するために、ちょっと回り道をさせてください。
ジョハリの窓
1955年夏にアメリカにて催行された「グループ成長のためのラボラトリートレーニング」席上で、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリ・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」を後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。 ジョハリ (Johari) は提案した2人の名前を組み合わせたもので、ジョハリという人物がいる訳ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%81%AE%E7%AA%93
突然ですが「ジョハリの窓」ってご存知でしょうか。ざっくりいうと「あなたという人間はあなたが思っている以上にいろいろな表情を持っているんですよ」ということを図式化したやつです。
周りの人に公開している自分が「開放の窓」、周りの人には見せないようにしている自分が「秘密の窓」であり、自分では気づいてないけど周りから見えている自分が「盲点の窓」、自分もまわりもまだ気づいていない自分が「未知の窓」であると分けることによって、自分では自覚できていない自分自身を見つけよう!というのが、このジョハリの窓の本来の使い方です。一般的には「開放の窓」が大きく、「未知の窓」が小さくなるのが良いと考えられています。
一般的には「自分」という人間を知るために用いられるジョハリの窓ですが、これの「芸能人バージョン」があったらどうなるか、考えてみようと思います。
(このブログをお読みいただいてる皆さんもぜひ「芸能人版ジョハリの窓」がどんな構図になるか、ご意見をくださったら幸いです。)
ファンから見られてなんぼの芸能人にとって、窓をタテに見たときの主語は「芸能人自身・あるいはそのスタッフを含めた芸能人サイド」になるのではないかと思います。芸能人サイドがプロデュースを行い、世の中に発信したいと考えている姿が「開放の窓」であり、プロデュースの意図からは外れているが、世の中に愛されている姿が「盲点の窓」であると言えそうです。
当然本家のジョハリと同じく、人によって「開放の窓」と「盲点の窓」のサイズは異なりますし、どちらが大きい方が良いとかいうこともなさそうだなと思います。ボで言えば小林さんは「開放」が大きいタイプだし、勇翔さんとかは「盲点」が大きそうだなぁと思ったりしますが、その魅力の質に優劣はありませんよね。
つぎに窓をヨコに見たときを考えてみます。本家ではヨコの主語は「他人」でしたが、芸能人版ではヨコの主語を「ファン」に据えてみましょう。個人的には、本家ジョハリと芸能人ジョハリの一番の違いは、ヨコ向きに見たときの窓の考え方にあるのではないかと思っています。
「ファンがわかっている領域」については、芸能人がメディアやイベントで見せてくれる姿のことを指していると言っていいと思います。では、「ファンがわかっていない領域」とは、具体的に何のことを指しているのでしょうか。
「ファンがわかっていない」領域の細分化
すごく素直に考えると、「ファンがわかっていない」ということはプライベートの姿を指しているんだと思います。でもわれわれファンは、「推しがこちらに見せない領域」を「わからない」のひとことで済ませているんでしょうか?
たとえばライブのMCで思わせぶりなことを推しが言ったときや、雑誌などのインタビューで語ってくれた文章を読んだとき、その言葉が出てきた真意はどこにあるんだろうって悩んだりしたことはありませんか?
単刀直入にいえば、推しがメディアでは明らかにしない部分について想像を膨らませたことや、推しの言葉からその先に広がる未来を夢想したことが、オタクなら誰しもあるんじゃないでしょうか?
僕はこのオタクの行動を正確に窓に反映させるためには、少し窓枠をいじる必要が出てくるように思いました。というわけで、僕のアンサーがこちら。
芸能人サイドがファンに「見せていない」領域を、さらに2分割してみました。表中では「妄想」とバッサリいってますが、ファンが推しを眺めるとき、そこには多かれ少なかれファン側の「願い」が投影されているものと思います。つまり、ファンから見えている推しの姿を表しているのが、上4つの窓枠ということになります。
人間の脳は「自分に見えているものがすべてだ」という認識のゆがみに陥りやすいとされています。ジョハリの窓とはそのゆがみを自覚・矯正するための思考ツールなわけです。
本家ジョハリの窓の一番の目的は、自らの中にありながら自らが「自覚できていない自分の姿」を炙り出すというものであり、窓を使うことで「自分が自分の姿を見る」……つまり思考する主体は自分(=タテの分け方)にありました。
ところが芸能人版では「ファンが推しの姿を見る」という行動を考察しているわけですから、窓を使って思考する主体である自分は「ファン(=ヨコの分け方)」の立場になるわけで、そこが本家ジョハリと芸能人版のいちばんの違いになるのかなと思いました。(むしろ芸能人版は縦と横を入れ替えた方がしっくりきたのかもしれないです)
つまりこの窓を使うことで出来るのは、ファンサイドの「推しに対する認識のゆがみの修正」という作業ということになります。
この芸能人版ジョハリの窓を通して推しを眺めると、自分が推しに対して抱いている感情の根源がどこにあるのかが、ちょっと明確になるんじゃないかなって思ったりします。
まじやみ的な認識のゆがみ
僕がこの芸能人版ジョハリの窓というアイディアにたどり着いたのは、自分自身の推しに対する認識がゆがみまくっていたことに気付いたからだったりします。
推しの幸せを願うのが、オタクのサガです。
でも「推しの幸せ」って、いったいなんなんでしょう。
売れること?有名になること?お金持ちになること?
芸能人としての成功は、たしかに「売れること」であり、「有名になること」であり、その結果として収入も増えるんでしょう。
でもそれは、「推しに芸能人としてビッグになってほしい」「応援している人が有名になってほしい」という、オタクの願望にすぎません。
僕はこのオタクの願望と、推し本人にとっての幸せを、長らくごちゃまぜにしていたように思います。
それどころか、「売れるためにこうすべきだ」みたいな思い込みみたいなものに取りつかれて、推しの行動を批判的に見てしまうことも、多々あったと思います。
かく言う僕自身も、周りの大人に「金を稼げる人間になれ」とか「出世しろ」とか言われるたびに「うっせーな!そんなことのために僕の人生があるわけじゃねーよ!」と反発していた人間なので、いかにこの「願望の押し付け」が不快なことか、理解できないわけがないんですよね。
みんなに見られるお仕事だからこそ、自分の幸せを大切に生きてほしいなって思う一方で、お仕事としてステージの上で踊ったり歌ったりすることも彼らにとっての幸せであってほしいと願ってしまうのはオタクのわがままでしょうか(訳:ホルツ見ました)
— まじやみ(麦ご飯) (@mjym_red) 2020年7月24日
めちゃくちゃなわがままを言ってることに、この時の僕は気付いていません。笑
ゆがみとの共存
僕がそういう状態になっていることに気付かせてくれたのは、推し本人でした。
「塩対応」とイジられるつじもとさんですが、彼のファンに対する対応は、すごく丁寧でやさしい人だと僕は思っています。
ただ、彼は自分の想いや考えを表現するときには、口で語るという方法よりもどちらかと言えば「背中で語る」方を好むように感じていました。そのこと自体に不満は全くないですし、むしろ僕はそういうスタイルをあまり持ち合わせていないので、純粋にカッコいいなぁと思っているくらいです。
そんな推しを推しはじめてしばらく、そのスタイルに甘えた僕は、明確には語られない彼の心情を勝手に想像することで、生身の人間である推しの人生を「消費」するような楽しみ方をしていたように思います。(辻本さんが休養に入ったり、コロナ禍で姿が見えなくなった2020年の前半は、特にその傾向が強かったと思います)
しかし僕のそんな妄想は、本物の辻本さんの前には、まったく無力でした。
最近でいえば、主演を務めた舞台の千秋楽で語ってくれた言葉や、10周年ブックのインタビューで語られている言葉のなかで語られている言葉が印象的ですが……本当につじもとさん、普通の人間とは全く違った考え方・生き方をされているんですよね。
仕事に対する考え方、ファンに対する考え方、自分の人生の目的……細かく語ると諸々のネタバレになってしまうので控えますが、ざっくりいえば、つじもとさんは僕らが思うようなところに幸せの価値基準を置いていなくて……これがまた、僕の想像していたつじもとさんの数百倍かっこいいのなんの。
そんな推し自身のカッコよさによって、僕が妄想で作り上げていた虚像は木っ端みじんに打ち砕かれました。そして、むしろ半端な妄想をすることで、つじもとさんの姿を見つめようとする自分の瞳を曇らせてしまうということにも気付きました。
ただ、これは今後ぼくが妄想の窓を一切閉じるという宣言ではありません。笑
つじもとさんは僕のような一般人が想像し得ないくらい、とてもまっすぐでカッコいい人です。それと同時に、彼はとても可能性にあふれた人で、傍で見ているオタクは彼のこれからの活躍に夢を抱かずにはいられないのも、また事実ではあります。
(というか妄想を一切しないオタクってこの世の中にいるんだろうか……また話が散らかりそうなのでアレですが、18世紀の哲学者イマニュエル=カントは、「人間は実際の経験によって得られた感覚を活用することによって、経験したことのない領域について想像することができる」というようなことを述べていました。この力は「理性」と呼ばれ、「理性の働きによって人間が獲得したのが美や崇高さという概念である」だそうで。他人の心情は体験できないけれど、想像せずにいられないのが人間のサガであり、それを推しに対して行ってしまうのがオタクのサガとも言えるのではないでしょうか……)
ここまでを踏まえ、僕はオタクとして今後どうやって生きていくべきか……現時点での解は「つじもとさんが見せてくれる景色をゆがみなく見つめながら、その像をゆがませない程度にオタクの業を楽しんでいきたい」といったところになってきますが、そうあるためにも、今回提唱させてもらった「芸能人版ジョハリの窓」は、自分の行動が推しの姿を過度にゆがませていないかを確認するためのツールとして、案外役に立つような気がしています